2021年3月1日の朝、89歳の父が息を引き取りました。
父は1995年の12月に私達の母が亡くなったあとの25年間は、実家を離れて暮らす二人の息子に頼ること無くひとりで暮らしていました。
父は80歳を超えてからもわたしの住むバリ島まで何度も遊びに来てくれて楽しんでくれました。
いつもバリ島へ遊びに来るときは弟が一緒に連れて来てくれていたんですが、84歳の春には「来月は用事が無くて暇だからお前のとこへ遊びに行こうかな」と突然言い出して、息子たちの心配をよそにたった一人で飛行機に乗ってバリ島まで遊びに来るという快挙を成し遂げています。
もちろんチケットの手配や海外旅行保険の加入、出入国書類の事前準備などはわたしと弟の二人で万全のバックアップ体制をとっていましたが、インドネシア語はもちろん英語もわからん84歳のジイさんがたった一人で海外旅行ができるのかドキドキ見守っていました。
そんな息子どもの心配をよそにイミグレも税関検査もなんなくこなしてバリ島に来たときは昭和一桁の強さを思い知らされました。
80代後半になってくると身体も少しづつ弱くなってバリ島旅行もしなくなってきましたが、父と兄弟二人が実家に揃えば大好きな刺し身やら寿司やら揚げ物を肴に楽しそうに酒を飲んでいました。
時には好物の肉を食べるために揃ってステーキハウスへ出向いて肉のかたまりにかぶりつくという年齢を感じさせない食生活も堪能していました。
そんな元気な父も晩年はご多分にもれず少しづつ認知機能の低下が見られ、一昨年の7月からは小田原にある介護施設でお世話になっていました。
実家のある亀戸で生まれ育った父は住み慣れた亀戸の街以外で生活することには不満もあったでしょう。
それでも私たち兄弟の言うことを(心のなかでは「チッ!」と思いながら)受け入れてくれ、施設での生活をはじめてくれました。
今年2月に入るとベッドから起きることもだんだん難しくなって、眠っている時間が徐々に長くなっていったようです。
2月下旬になり往診の医師から深刻な状況になりつつあるとの連絡を受け、入居先の施設から特別な面会許可ももらい弟は2月27日に、わたしは2月28日に父との面会をしてきました。
最後の面会ではベッドで寝続ける父との会話は出来ませんでしたが、じっくりとこれまでの思い出話などを(一方的ですが)することができました。
私たち兄弟との面会を待っていたんでしょうか?私たちとの面会を済ませた翌日の3月1日朝、嫁さん=私たちの母の待つ天国へ穏やかな顔で旅立っていきました。
生前の父の希望もあり、またコロナ禍という状況もあって葬儀は実家で家族葬という形で済ませました。
私たち兄弟を育てるために昼夜分かたず働いてくれ、私たち兄弟に楽しい時間をたくさん与えてくれた父にあらためて感謝をしながら見送ることができました。
これからしばらくは親不孝な息子たちを相手にすることからも開放されて、大好きだった母と一緒に過ごしてくれることでしょう。
そんな父を兄弟二人で見送ることが出来たことも良かったと思っています。
父ちゃん、これまでありがとう。
安らかに、そして天国でもおもしろおかしく過ごしてくださいね。